「豆州志稿」によると、南北朝時代、聞間七郎太夫が築いたとされる。1338年(延元3)9月、肥後国菊地武敏の一族である聞間七郎太夫は、義良親王(または宗良親王?)に従い、北畠親房らと伊勢から奥州へ向かう途中、暴風に遭って遠江へ漂着した。そして陸路伊東氏を訪れ、網代を受領して城を構えたと伝わる。 1589年(天正17)3月、安房国里見氏やその家臣鎌田美濃守が兵船10艘で賀茂郡多賀湊に押し渡り、網代城を攻めた記録があり、この時の城主は岡本善左エ門という。 三方を山に囲まれた教安寺を中心とする「湯ヶ谷」が城址とされ、門前に城址碑が立つ。また東方に位置する標高162メートルの朝日山は平安時代末期、伊東祐親の家臣である網代小中太家信が居住したといわれる。 |