奈良・平安時代に渡って置かれた日本最北端の政庁跡。 奈良・平安時代の中央政府は、対蝦夷政策の一環として城柵の北上を進めるが、733年(天平5)庄内地方にあった出羽柵をこの地に移し、760年(天平宝字4)頃、秋田城と改称し、出羽国北方の政治・軍事の中心的存在となった。 780年(宝亀11)秋田城の廃復問題が起きるが、結局専任の国司を常駐させる事が決まり、これが後の「秋田城介」の始まりとなる。 878年(元慶2)重税に反発して俘囚が反乱を起こした「元慶の乱」の際、秋田城は占拠されるが、中央から派遣された藤原保則により鎮圧される。しかしこの乱で秋田城内は大きな損害を受けた。 その後文献にみられる秋田城の最も新しい記録は1356年(延文1)であるが、この頃の規模、また廃城の時期については明らかではない。
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