1360年(延文5)頃、肥前に侵攻した菊池武安により築かれたとされ、同年6月29日、高木貞房ら北朝方が松崎城・本告城を攻撃、同時に姉河・牟田城を攻略した記録が残る。落城後、姉川城は北朝方の拠点となり、龍造寺家文書には龍造寺家平・家経が宿直警固した事も記されている。 後に武安の後裔を称す姉川氏が居城したといい、戦国時代後期には龍造寺氏に属し、1572年(元亀3)城主姉川信安の時、龍造寺隆信より米多城に移されたとされる。 廃城の時期は不明だが、発掘調査の結果、17世紀初頭まで存在したと考えられている。 堀(クリーク)を周囲に廻らせた浮島状の島で構成されたこの地域に多く見られる環濠遺構群の一つ。館の地名が残る最大の島を中心とし、周囲に小路屋敷・妙法寺・観世音寺・奥館等と呼ばれる大小の島が残る。また西側が大手と思われ、下馬口・構口地名が残り、中地江川沿いには北ん屋敷・中古賀・専称寺等、町並みの存在を推定させる地名や区割りが見られる。 |