滋賀県栗東市上鈎 --永正寺土塁-- |
別名 | 鈎陣所 |
交通 | JR草津線「手原駅」から徒歩15分。 |
築城年代 | 1487年(長享1) |
築城者 | 足利義尚 |
形式 | 陣城 |
主な城主 | 足利義尚 |
1487年(長享1)9月から1489年(長享3)3月まで室町幕府9代将軍足利義尚が観音寺城主六角高頼(行高)征討の為、在陣した陣所跡。 1467年(応仁1)応仁の乱が勃発すると、六角高頼は対立する京極持清が東軍細川方に属した為、西軍山名方として戦った。この時六角氏は同族同士で東西に分かれて争い、高頼は劣勢であったが、1471年(文明3)箕作城で六角政堯を討ち取ると、勢力を拡大した。この勢力を背景にして寺社や公家領の横領を繰り返した為、室町幕府の反発を買う。 1487年(長享1)9月、足利義尚は近習・奉公衆ら直轄軍を自ら率いて坂本に出陣すると、諸将を湖東に派遣した。高頼勢は観音寺城から逃れ、甲賀に敗走すると、幕府軍はこれを追い、義尚も坂本から「鈎之安養寺」、そして「真宝寺」へと陣を移した。しかし高頼勢は戦わずして更に甲賀の山中深く敗走した。義尚は高頼を待ち、この地に在陣するが、1489年(長享3)3月、陣中で病に侵され没し、第一次近江征討は終わった。 その後高頼は近江守護に復帰するが、所領を返還しなかった為、1491年(延徳3)8月、10代将軍足利義稙(義材)から再び征討を受けた。この時も高頼は観音寺城を逃れ、甲賀の山中に出奔し、また細川政元のクーデター(明応の政変)もあり、幕府の征討は再び失敗に終わっている。 永正寺周辺が陣跡といわれ、土塁や堀跡が残されている。 |
案内板 | 永正寺土塁 | 天王神社 足利義尚建立 |