1183年(寿永2)倶利伽羅峠の合戦で勝利した源義仲は上洛を果たした。 やがて義仲は後白河法皇と対立するようになり、源頼朝は義仲を討つ為、範頼・義経に6万の兵を与え、京に向かわせる。 1184年(寿永3)1月20日、範頼・義経率いる東国勢は入京し、義仲は北陸路へ向けて敗走した。しかし近江に入った頃には僅か7騎となっており、粟津の松原において深田に馬が足を取られ、義仲は討死、最後まで従っていた乳母子の今井兼平も自刃した。 兼平の墓は元々「墨黒谷」にあった粗末な塚で、膳所藩主本多康政によってこの地に移されたという。 |