神奈川県海老名市河原口3丁目 --館跡西方に建つ海老名氏霊堂-- |
別名 | 海老名城 |
交通 | JR相模線・小田急線「厚木駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 平安時代末期 |
築城者 | 海老名源八季定 |
形式 | 館 |
主な城主 | 海老名氏 |
海老名氏は村上源氏の流れを汲む横山党の子孫で、1058〜1064年(康平年間)源四郎親季(有鹿・有兼)が相模守となり、この地に居住して、海老名氏を称した事に始まるとされる。親季は跡継ぎが無かった為、横山守兼の子季定を養子に迎えると、季定は鎌倉幕府の有力御家人となり、5子を周辺に配置し、大武士団を結成していた。1213年(建保1)和田義盛の乱の際、一族は義盛に従い、鎌倉に向かうが敗れ、一時衰退するも、やがて復帰し、その後も相模武士として活発な動きをみせている。 1438年(永享10)永享の乱の際、海老名氏一族は鎌倉公方足利持氏に従った。持氏方は上杉憲直を大将、二階堂・穴戸・海老名氏らを副将とし、また安房里見氏の武将大島義金の来援を得て早川尻に追討軍を迎え撃つが大敗した。持氏はこの地に退いて陣を構えるが、離反者が相次ぎ、長尾忠政に捕らわれると鎌倉永安寺に送られ、翌年討たれた。また持氏に殉じた海老名氏一族も大半の者が本貫地を失い、没落した。 有鹿小学校南、字御屋敷が館跡とされるが、宅地化により遺構は全く残されていない。海老名氏菩提寺である宝樹寺跡には海老名氏霊堂が建ち、海老名氏のものと伝わる宝篋印塔や五輪塔が安置されている。 ●有鹿姫 1477年(文明9)長尾景春の乱の際、景春方に与した小沢城は落城し、城主金子掃部助は討死する。この時河原口に住んでいた郷士の青年と婚約中で海老名館に来ていた掃部助の姫は急いで小沢に戻るが、炎上する小沢城を後にし、悲観して相模川に身を投げた。すると姫の体は大蛇に変わり、下流に向かって泳ぎ出し、河原口に近づくと、再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社の裏の河原に打ち上げられたという。神社の氏子らは海老名の地に嫁ぐ日を夢見ていた姫の死を悲しみ、有鹿姫の名を贈ると神社の片隅に葬った。現在有鹿神社と有鹿小学校の間に有鹿姫を偲ぶ標柱が立てられている。「こどもえびなむかしばなし第4集」 |
海老名氏記念碑 |
有鹿神社 |
有鹿姫之霊地史跡標柱 |