比企能員屋敷

比企能員屋敷ひきよしかずやしき
神奈川県鎌倉市大町1丁目
Mapion

--妙本寺に立つ屋敷址碑--
別名          
交通 JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩15分。
築城年代 平安時代末期
築城者 比企能員
形式 屋敷
主な城主 比企氏
源頼朝の乳母比企尼の養子で、頼朝挙兵以来各地に転戦し、活躍した比企能員屋敷跡。妻は頼朝の子頼家の乳母となり、また娘若狭局は頼家の側室として一幡を生んでおり、1199年(建久10)源頼朝没後、頼家が2代将軍を継ぐと、外祖父として勢威をふるい、頼朝の妻北条政子と舅である初代執権北条時政と対立するようになった。
1203年(建仁3)8月、頼家が重病にかかり、危篤に陥ると、時政・政子父子は能員不在の中、地頭職と総守護職を一幡と頼家の弟千幡(3代将軍実朝)に相続させ、権力を二分する。
9月2日、これに怒った能員は病床の頼家に北条父子の専断を訴えると、頼家は能員に北条氏討伐を命じた。しかしこの密議は障子を隔てた隣室で政子が耳にしていた。政子の報告を受けた時政は先手を打ち、能員を法事と称して自邸に呼び出すと、仁田忠常らに命じて暗殺する。次いで時政は比企一族が一幡を奉じて立て籠もるこの比企屋敷を囲み、比企一族は奮戦の末、僅か1日で滅んだ。
9月5日、病状が回復した頼家は比企一族が滅んだ事を知ると激怒し、和田義盛、そして能員を討った忠常に時政討伐を命じるが、義盛は応じず、また忠常は混乱の中、加藤景廉に討たれた。
9月7日、頼家は将軍職を辞任させられ、9月10日、千幡(実朝)が3代将軍に就いた。翌年7月18日、伊豆に幽閉されていた頼家は時政の命を受けた金窪行親に討たれている。

参考文献   「鎌倉合戦物語 雄山閣出版」
                   「中世都市鎌倉 遺跡が語る武士の都 講談社」
訪城回数 1
2016年1月