1336年(建武3)から翌年にかけて、田舎館領主であった南朝方工藤氏、又は安保氏と、平賀郡地頭職の曾我太郎貞光が争った田舎館合戦当時、規模は不明だが、この地に既に城館があった事が伺える。 1475年(文明7)南部一門の浅瀬石城主千徳政久の2男が千徳貞武(政実)を称し入城すると、政武まで千徳氏が5代続いた。 1585年(天正13)5月20日、5代政武の時、津軽統一を目指す大浦為信の軍勢3千に攻められると、城主政武以下300余人は討死、落城した。その後政武の妻於市は1601年(慶長6)為信主催の法要の時、祭壇の前で自害したという。 城址一帯は水田や宅地となっており、遺構は不明瞭だが、正魂神社付近が本丸とされ、近くに「盛コ(ヤマコ)」と呼ばれる土塁が僅かに残されている。土塁上にはサイカチの老木があり、一説に討死した千徳政武以下300余人を埋葬した時の供養樹といわれている。 |