四国阿波の三好之長は、細川澄元の先鋒として入京し、その後見人として権力を握った。 之長は京都に近く、阿波に渡るのに都合の良い堺に目をつけ、1504年(永正1)2月、海の見える海船町に館を建てる事を計画、京都から堺に来て4月から工事を開始した。孫の元長の代に完成し、1521年(大永1)3月、政所の号をもらった。以後長慶・義興・義継3代続いて居住し、この政所は摂津・河内・和泉の各支城の本城的な役割も果たした。 天正の頃、兵火により焼失したという。 桜之町西3丁付近を中心に広大な区域であったと推定され、館の中央に設けられた高楼から常に四方を監視し、有事の際には鐘や太鼓で一族郎党に知らせたという。 一帯は宅地化され、地図の地点、錦西コミュニティセンター前に海船館碑が立つのみとなっている。また桜之町西3丁には海船政所址碑が立つ。 |