1418年(応永25)那須太郎資氏の次男である沢村五郎資重が八高山山頂に古本丸を築いた事に始まると伝えられる。1414年(応永21)当時、沢村城主であった資重は福原城主で兄の那須資之と対立、沢村城を追われた資重は興野館へ逃れ、その後稲積城を修築して移り、1418年(応永25)烏山城を築いたといい、以後8代172年間、那須氏の拠点となった。またこの時福原城の資之は上那須氏を称し、烏山城の資重は下那須氏を称した為、那須家は上下に分裂するが、1516年(永正13)上那須家の内紛による断絶後、4代資房が両家を統一し、自立したとされる。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めに際し、8代城主資晴は参陣が遅れたとの理由により、所領8万石は没収され、那須氏は没落した。 その後烏山城には成田氏長・堀美作守親良らが交替で入城し、その間織田信雄が僅か2ヶ月ではあるが、170万石の大名から2万石の烏山城主として転封されている。 1659年(万治2)堀親昌の頃、東麓(寿亀山神社境内)に三の丸が築かれたが、この居館は1872年(明治5)大雪の為に崩壊したという。 |