清和天皇の皇子貞元親王は名張郡の地を賜り大江と称すが、1558〜70年(永禄年間)その子孫上野介貞清は柏原の領主となり、滝野氏を名乗り居住したと伝えられる。 1581年(天正9年)城主十郎吉政の時、織田信長は伊賀攻めを各部将に命じ、信雄を総大将とする4万2千の大軍で侵攻した。「第ニ次天正伊賀の乱」 10月3日上野比自山を攻略した織田勢は、最後の拠点として伊賀土豪たちが立て籠もるこの柏原城に総攻撃を開始した。城方は僅か1千6百余りであったが、織田勢3万数千人を相手に激しく抵抗する。しかし多勢に無勢であり、兵糧も尽きた為、10月28日早朝吉政は総大将北畠(織田)信雄に降伏した。 城址西にある勝手神社外側に城址碑が建つ。 |