1512〜13年(永正9〜10)阿蘇氏の内紛により阿蘇惟長(菊池武経)は弟である惟豊に本拠の矢部館を追われたが、1523年(大永3)惟長の子である惟前は堅志田城に拠って惟豊と対峙した。しかし1543年(天文12)堅志田城は落城、惟前父子は八代に追われた。 その後薩摩国島津氏が肥後国に進出すると堅志田城は阿蘇領の最前線としての役割を持つようになる。1582年(天正10)から堅志田城を巡り、阿蘇氏と島津氏との間で攻防が繰り返され、1583年(天正13)島津氏から攻撃され、落城した。以後堅志田城は島津氏の番城となるが、1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐、肥後国人一揆の間で廃城になったものと思われる。 標高256メートル、城山山頂の本丸を中心とし、北東の栫集落に向かい延びる尾根上に二の丸・舞ノ御殿・味噌御殿等、曲輪が設けられている。また本丸から南西の熊取集落に延びる尾根上にもいくつかの曲輪があり、計11箇所の曲輪、15箇所の堀切や畝堀等を有する大規模な城跡であり、国の史跡に指定されている。中心部は綺麗に整備され、建物跡等、平面表示されているが、2019年12月現在、荒れ気味で一部地滑りにより斜面が崩壊し、見学が制限されている。また中心部以外も大半が薮になっているが、遺構は良く残されている。 |