1192年(建久3)頃、塩谷北部地域を支配していた塩谷朝義に跡継ぎが無かった為、宇都宮業綱の2男朝業が養子となり、1199〜1204年(正治・建仁年間)にこの川崎城を築いたという。朝業は歌人としても優れ、鎌倉幕府3代将軍源実朝とは和歌を通じても親しい主従関係にあった。その後実朝が暗殺されると、世の無常を感じて出家し、信生法師と号する。 塩谷氏は教綱の頃、宇都宮氏を支族の武茂持綱が継いだ事に不満を持ち、本家宇都宮氏と争うようになった。一度は和睦するも、1458年(長禄2)宇都宮城に招かれ謀殺され、塩谷氏は断絶した。 その後宇都宮正綱の子孝綱が塩谷氏を再興するが、1590年(天正18)孝綱の子義孝は豊臣秀吉に背き、塩谷郡を追われて奥州へ逃れた。その際川崎城は廃城になったと考えられる。 城域は、北は城の湯温泉西まで、南は堀江山(初期の居城か)までの南北約1500メートルに及ぶ。川崎城は城址公園として整備されており、遺構も良く残されている。 |