室町時代、大里は興福寺領狛野荘の南之荘の中心集落であり、狛日向守の居館を中心にして、周囲に環濠を巡らし、その内側に竹薮や雑木林を重ねる等、中世における防御を目的とした環濠集落であった。 やがて応仁の乱が南山城地方にも拡大すると、大和の筒井氏と結び、畠山政長、細川勝元・政元に仕えた狛氏も東軍方として戦乱に巻き込まれていく。 1483年(文明15)4月16日夜、西軍方斉藤彦次郎の軍勢は狛城を攻め、狛山城守秀はこれを迎え撃つが、息子新三郎兄弟をはじめ数十人が討死し、城を焼いて大和へ逃れた。 2年後、狛氏や椿井氏ら南山城の国人衆は一味同心して自治を行うようになった。 |