下野国小山朝政の孫である朝村を祖とする薬師寺公義により築かれたとされる。以来薬師寺氏一族が居城し、室町時代を通じて守護細川氏被官として活躍、1564年(永禄7)備前龍の口合戦では薬師寺弥五郎が従軍して戦功を挙げた為、孫五郎久持は下土田村を与えられて移ったという。 溝口公会堂一帯は「しろんち」と呼ばれ、南北に中川が流れている。この中川を挟んだ東西辺約100メートル一帯が城址と考えられるが、大半が畑となっている。以前は北辺に土塁が残されていたようだが、現在は公会堂裏手に土塁の残欠とも思われる土盛が確認出来るだけとなる。 |