12世紀から15世紀にかけて、目黒川流域に勢力を持っていた目黒氏居館跡。目黒氏は武蔵七党の一つの横山党、または児玉氏と同族の武士で、目黒川と蛇崩川の合流点近く、字別所(目黒学院高校付近)に館があったとされる。 「吾妻鏡」には、1190年(建久1)11月7日、源頼朝が京に上った際に率いた武士の中に目黒弥五郎の名がみえる。また1221年(承久3)承久の乱の宇治橋合戦で手傷を負った武士の中に目黒小太郎の名もみられる。 宮城県角田市に伝わる「目黒氏家譜(系図)」には、目黒四郎左衛門尉家資が武州荏原郡目黒邑を領し、家名を目黒と改め、その後1444年(文安1)2月、目黒源内兵衛尉石見守が下総から奥州に下り、伊達持宗に仕え池田館に住んだとある。 |