標高1520mの御坂峠を中心とし、南北稜線上に築かれた、日本一標高の高い城址。御坂峠を通る鎌倉街道を封鎖する関門であり、東西両側には長大な空堀を廻らせている。 1582年(天正10)武田家滅亡後、甲斐・信濃諏訪郡の領主となった河尻秀隆が武田家旧臣や農民等の国人一揆により討たれると甲斐国は一時的に無主地となり、徳川家康と後北条氏が領有を巡り争った。この時甲斐侵攻の拠点として後北条氏によりこの御坂城が築かれた(又は修築)と考えられる。「天正壬午の乱」 御坂峠付近を城域の中心とし、南北それぞれのピークにかけて稜線上に堀や土塁が良好に残されている。 |