この地には源義家に従い、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の子孫の館があり、長尾次郎と名乗ったと伝えられ、鎌倉長尾氏の始祖という。 次郎の子孫という長尾定景は、1180年(治承4)8月、石橋山合戦で佐那田与一義忠を討ち取った人物とされ、また1219年(健保7)1月、3代将軍源実朝を殺害した別当公卿を討ったともされる。 その子景茂は1247年(宝治1)6月、宝治の乱において北条時頼に追われ自刃した。鎌倉長尾氏はここに滅亡するが、室町時代には景仲が活躍し、戦国時代には長尾顕方等の屋敷があったとされ、その後も一族の子孫は長尾郷一体に定着していたものと考えられる。 戦国時代に長尾氏は北条氏の勢力下に置かれ、長尾台には長尾砦が築かれ、三浦・武蔵方面への押さえとした。 |