一帯では2度合戦が行われている。 ●上杉禅秀の乱 家督を継いだ上杉禅秀(氏憲)は憲定に代わって関東管領に就き、鎌倉公方4代持氏を補佐するが、やがて持氏と対立するようになる。 1417年(応永24)1月、禅秀は持氏の叔父満隆と謀り、満仲を奉じて挙兵し、江戸氏をはじめとする武蔵勢を相手に、瀬谷中丸山において中原道・武蔵道・鎌倉道から押し寄せる諸軍勢と激しく争うが、9日敗走し、10日一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊で自害した。
●北条氏康×扇谷上杉朝興 1529年(享禄2)6月12日、扇谷上杉朝興と争う北条氏綱は、氏康を大将とし、この付近一帯で上杉勢を撃破、敗走させた。この時氏康は16歳であった。 |