一条氏は鎌倉時代中期、摂関家である九条道家の4男実経が分家独立した事に始まり、その際この幡多郡にあった荘園を九条家より譲られた。 1467年(応仁1)応仁の乱が起こると、一条家の室町の第は焼失し、翌年一条教房とその一族は京都の戦乱を避けて、この地に逃れてきた。この時居館として中村御所は構築され、現在一条神社が建つ「森山」という小丘を背に三方を堀で囲まれた約70アールもの広さであったといわれ、また京を思わせる西小路や寺小路という地名が残り、後に土佐の小京都といわれる街造りの基盤となった。 明確な遺構は確認出来ないが、御所にあったという7つの井戸の中で唯一現存する「化粧井戸」や「咲かずの藤」といった一条氏ゆかりの旧跡が残されている。 |