元北面の武士で大和国阿仁和ノ荘に居住していた阿仁和兵助橘基保は、1312年(正和1)京都在任中に一族郎党を引き連れると、大和国から関東に移った。これを知った新田義貞は京から義興に書を送り、基保を探させると家臣とした。基保は秩父の地を与えられ、1335年(建武2)この仲山城を築いたとされる。 基保の長女は能登時国に嫁し、長男直家は父の跡を継ぎ2代目城主となる。 しかし1357年(延文2)直家は秋山城主秋山新九郎継照の腰元との恋のもつれから継明に攻められ、城前の荒川河原で討死したといわれる。この時直家の奥方芳野御前は落城直前に能登に逃れており、夫直家の13年忌にあたる1369年(応安2)10月、再びこの地を訪れると供養の為に石塔婆を建立した。 |