1582年(天正10)武田家滅亡後、甲斐・信濃諏訪郡の領主となった河尻秀隆が武田家旧臣や農民等の国人一揆により討たれると甲斐国は一時的に無主地となり、徳川家康と後北条氏が領有を巡り争った。この時中牧(山梨市牧丘町)を中心に勢力を張っていた大村党の首領大村三右衛門(加賀守)は後北条氏に与し、この大野砦に拠って反徳川の結集を呼びかけたが、これに応じる者はほとんどいなかった。その後徳川方の穴山衆と激しい戦いが行われ、三右衛門をはじめ多数が討死したという。「天正壬午の乱」 遺構は無く付近を水路が流れ、城屋敷にあったという稲荷社が残るだけとなっている。また稲荷社から南へ5分ほど歩いた重川沿いの畑の中には、大野の戦いで討死した大村党の霊を祀ったものと伝えられる三十六霊塔がある。 |