1602年(慶長7)日隈城からこの地に移った毛利高政により築かれ、明治維新に至るまで代々毛利氏2万石の居城となった。1606年(慶長11)完成したが、1617年(元和3)失火により本丸・天守閣が焼失すると、再建される事は無く、1637年(寛永14)3代高尚の時、山麓三の丸に居所は移された。その後山城は放置され、荒廃したとされるが、1709年(宝永6)6代高慶は幕府の許可を得て20年に及ぶ修築工事を行った。この時も天守は再建されなかったという。 最後の藩主12代高謙の時、明治維新を迎えた。 本丸北に北の丸、南に二の丸・西の丸と並び、石垣が完存している。また本丸を中心として南北に曲輪が並ぶ羽を広げた形状から鶴城等とも呼ばれる。山麓三の丸は佐伯文化会館敷地となり、櫓門が残されている。
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