平安時代、瀬尾村を所領とした平家譜代の臣妹尾(瀬尾)太郎兼康により築かれたと伝わる。兼康の母は瀬尾兼門の妹保子とされる。1126年(太治1)に兼門が滅びると、保子は鳥羽上皇の宮女として仕え、その後上皇の御子を宿すと、平忠盛(清盛の父)に預けられ、御子を産んだといい、これが兼康といわれる。兼康16才の時、瀬尾に入るとこの地に城を築き、州浜城と称したと伝わる。 1183年(寿永2)4月、兼康は木曽義仲追討軍に加わり、義仲方倉光成澄に捕らわれるが、武勇を惜しまれて助命され、成澄の弟成氏に預けられた。同年10月、義仲が都落ち後に勢力を盛り返してきた平家追討の為、山陽道を西進すると、反撃の機会を伺っていた兼康は自領である備中瀬尾村を案内すると成氏を誘い出して討ち、笹迫に急造の砦を構えて叛旗を翻した。兼康は幾度も木曽勢を撃退するが、同月24日、砦はついに落とされ、最後は僅かな郎党と共に討たれたという。 盛隆寺背後の小高い丘陵、通称「稲荷山」が城址とされる。案内板が立つ本丸と思われる山頂は広い平坦地となり、西側に段曲輪、東側に虎口のような地形があり、一部石積みも見られるが、ほとんどが畑になっており、どこまでが旧状通りかは不明。 |