奈良時代、律令政府により造営され、南北朝時代頃まで続いた陸奥国国府跡。802年(延暦21)坂上田村麻呂が胆沢城を築くまでは鎮守府も置かれ、東北地方の政治・軍事の中心であった。 前九年・後三年の役の際、源頼義や源義家が多賀城を拠点とし、また1189年(文治5)源頼朝による奥州征伐では頼朝が立ち寄り、戦後ここで陸奥国に対する統治方針を言い渡している。 南北朝時代に入ると、北畠顕家が国府を再興し、その後国府争奪を巡って南朝方と足利方の攻防が繰り返される。 その後奥州探題として斯波氏が大崎地方を根拠地とすると、600年以上続いた多賀城は国府としての使命を終えた。
●多賀城碑 南門近くに立つ多賀城碑は762年(天平宝字6)12月1日建立の銘があり、日本三古碑の一つに数えられる。724年(神亀1)大野朝臣東人が多賀城を設置した事や、762年(天平宝字6)藤原朝狩が多賀城を修造した事が記され、碑文には藤原朝狩の修造について多く見られる事から多賀城修造記念碑とみられている。
●館前遺跡 多賀城の南東隅から200メートルに位置する。 発掘調査の結果、多賀城に赴任した国司の館跡、もしくは多賀城に関連する役所跡と考えられている。 また館前という地名から中世、地域の豪族により館として利用されたとも考えられるが、詳細は不明。 |