武田信廉は武田氏18代信虎の3男で、信玄の弟にあたる。信玄と風貌が酷似し、度々影武者をこなしていたとされ、又画家としても優れ、母大井夫人画像(長禅寺)や父信虎画像(大泉寺)が知られている。 信玄の没後間も無く剃髪して逍遙軒と号し、名も信綱と改めたといわれる。 1581年(天正9)伊那飯田・大島城に入るが、翌年織田信長の甲斐侵攻が開始され、信忠率いる主力が飯田城を落とすと、信廉は大島城を放棄し甲府に戻った。その後織田軍に捕えられ、相川河原で斬罪された。 詳しい位置は不明だが、逍遙院付近に信廉の館があったのではないかと推定される。逍遙院には信廉の位牌が残り、これは信廉が生前自ら彫った物で、自邸近くに牌所として建てたこの逍遙院に納めたのだという。 |