1063年(寛弘6)藤原利仁の流れを汲む加賀斎藤氏一族である富樫家国により築かれたとされる。 1446年(文安3)富樫教家・泰高の兄弟が守護職を巡り争うと、翌年室町幕府は加賀を二分し、北二郡を教家の子成春に、南二郡を泰高に任せ、2人はそれぞれ半国の守護職となった。その後泰高は成春の子政親とも対立すると、1488年(長享2)一向一揆方総大将となって高尾城に政親を攻め、自害させた。これにより加賀国は「百姓の持ちたる国」として一向一揆衆が実質的な支配者となった。 その後富樫館は一向一揆衆の城砦として整備されたと考えられるが、1580年(天正8)織田信長方の柴田勝家勢が石川郡に進出すると、野々市に拠っていた若林長門守の子雅楽助と甚八郎は勝家に謀殺されたという。 その後富樫館は荒廃し、近世に入りほとんどが開田されたとされる。 野々市工大駅前に富樫館碑が立つが、ここは「御蔵屋敷」と呼ばれ、館跡の中心は更に南北に広がっていた。一帯は宅地化されており、明確な遺構は確認出来ないが、館址碑南側では発掘により堀が発見され、案内板が立てられている。 |