前山城主伴野氏家臣の井出長門守が築いたとされる。その後村上氏家臣薬師寺右近が守っていたが、1540年(天文9)1月16日、甲斐国武田氏重臣の板垣信方に攻め落とされると、小山田備中守昌行が城主となった。同年12月、村上氏の援助を受けた佐久勢に攻められると、二の丸・三の丸は落ち、本丸を残すのみとなるが、武田氏の援軍を得て撃退したという。 その後も海尻城は武田氏の佐久侵攻における重要な前線基地となった。 医王院背後、千曲川に突き出した丘陵先端に位置する。小規模だが北麓の医王院や南東麓に建つ諏訪神社から西側にかけて根小屋があり、往時は広い規模であったと思われ、1540年(天文9)の合戦にみえる二の丸・三の丸はこの山下一帯を指すと考えられている。 |
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東下を流れる千曲川 |
南東麓に建つ諏訪神社 |
北麓に建つ医王院 |
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東曲輪 |
東曲輪から北側の眺め |
本丸に立つ標柱・東屋 |
参考文献 「現地案内板」
「長野・山梨の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2014年4月