采女城

采女城うねめじょう
三重県四日市市釆女町
Mapion
城址入口・案内板地図

--二郭・三郭間堀切--
別名 北山城
交通 近鉄内部線「内部駅」から徒歩25分。
地図の地点、内部川沿いに城址入口・案内板があります。
築城年代 1260年(文応1)
築城者 後藤基秀
形式 平山城
主な城主 後藤藤勝
藤原氏を祖とする後藤家初代実基は、1156年(保元1)保元の乱・1160年(平治1)平治の乱において活躍し、2代基清は検非違使として京都守護に活躍、1204年(元久1)平賀朝雅討伐に奮闘した。
1260年(文応1)5代基秀は戦功により三重郡采女郷の地頭職となり、一族郎党を引き連れ、采女の地に移ると、この采女城を築いた。以来300余年、後藤氏累代の居城として続いた。
戦国時代、後藤藤勝の時、織田信長の伊勢侵攻に遭い、関氏・蒲生氏と共に抵抗するが、1568年(永禄11)采女城は落城、藤勝は討死し、千奈美姫も主郭井戸に身を投げたという。
采女城は9つの郭から成り、一部未整備の郭があるが、それらを区切る規模の大きい空堀が良く残されている。
城址碑 八郭・主郭間堀切 内側から見る五郭枡形虎口
五郭・主郭間土橋 主郭 主郭井戸跡
主郭土塁 主郭・二郭間空堀 主郭・二郭間土橋
二郭 四郭空堀 四郭

参考文献 「現地案内板」
                          「三重・奈良・和歌山の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2014年1月