藤原氏を祖とする後藤家初代実基は、1156年(保元1)保元の乱・1160年(平治1)平治の乱において活躍し、2代基清は検非違使として京都守護に活躍、1204年(元久1)平賀朝雅討伐に奮闘した。 1260年(文応1)5代基秀は戦功により三重郡采女郷の地頭職となり、一族郎党を引き連れ、采女の地に移ると、この采女城を築いた。以来300余年、後藤氏累代の居城として続いた。 戦国時代、後藤藤勝の時、織田信長の伊勢侵攻に遭い、関氏・蒲生氏と共に抵抗するが、1568年(永禄11)采女城は落城、藤勝は討死し、千奈美姫も主郭井戸に身を投げたという。 采女城は9つの郭から成り、一部未整備の郭があるが、それらを区切る規模の大きい空堀が良く残されている。 |