1541年(天文10)5月、武田信虎・村上義清・諏訪頼重3氏は連合して海野平へ侵攻、滋野諸族を攻めた。 海野氏28代棟綱は、関東管領上杉氏に援軍を要請するが、千曲川・神川の増水に阻まれ間に合わず、海野平は3氏に占領される。 禰津・望月氏らは降伏し、棟綱は子ともいわれる幸隆と共に上杉氏を頼って関東に逃れるが、弟の幸義は討死した。 海野氏は嫡流が途絶えるが、その後武田信玄は次郎信親(竜宝)に名跡を継がせ、また幸隆は信玄に属した。 現在海野幸義戦死の地の標識が立てられている場所は神川を渡り、海野平へ入る最初の関門であり、激戦地であったと考えられる。またこの付近の地名は「太夫堂」と呼ばれており、これは左京太夫幸義の死後にお堂を建て、霊を慰めたという伝承に結びつくものと思われ、国道沿いには五輪塔が並んでいる。 |