武蔵七党の一つ横山党、横山新大夫孝兼の孫、義兼居館跡とされる。 1213年(建暦3)矢部義兼は和田合戦で討死している。 矢部氏の名は1416年(応永23)上杉禅秀の乱の際、「矢部伊与守・嫡子三郎」という人物がいたと「鎌倉大草紙」にもみえるが、この館との関係は明らかではない。 |
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上矢部の板碑(上矢部3-12) 1303年(乾元2)に立てられた板碑で 鎌倉時代この地に館を構え1213年 (建暦3)和田合戦で討死した矢部義 兼の供養碑といわれ後年遺族等に よって立てられたものと考えられる。 |
参考文献 「現地案内板」
「千葉・神奈川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2007年8月