楊本氏は「長川流鏑馬日記」に名が見える大乗院方国民で、楊本庄下司職等を与えられ、付近一帯に勢力を張っていた。 十市氏の勢力が伸びてくると対立し、楊本氏は越智氏と結んだ。1471年(文明3)十市遠清が筒井氏援軍と共に楊本館を攻め、楊本範満は討死したとされる。その後1498年(明応7)越智氏が敗れたのに伴い、楊本城は落城し、破却された。 その後十市氏の傘下に入り、1572年(元亀3)には十市氏の後室らが入城している。 黒塚古墳を砦として利用したもので、後円部を主郭としたと思われ、前方部との間のくびれ部分ではV字状の堀割が検出されている。
●柳本陣屋 1615年(元和1)織田尚長が父有楽斎長益から1万石を分与され、当時は3キロ南の大泉に在ったが、1624〜44年(寛永年間)この地にあった中世の柳本城を改修し、陣屋を設けて移った。 現在の柳本小と道を挟み北方一帯に御殿があり、黒塚古墳の周濠は水堀として利用された。 |