安威城

安威城あいじょう
大阪府茨木市安威2丁目
Mapion
城址碑地図

--城址碑--
別名      
交通 JR東海道本線「茨木駅」からバス「安威団地」下車。
バス停から徒歩10分。
築城年代 鎌倉時代末期頃か
築城者 安威氏
形式 山城
主な城主 安威弥四郎
古代よりこの付近はアイの名を冠した中臣藍連の一族が栄えていたとされ、「六波羅蜜寺文書」、1363年(貞治2)の中に安威氏の記録がある事から、鎌倉時代末期頃には在地領主として居たと考えられ、城もこの頃に築かれたと考えられる。
16世紀初頭、摂津国守護細川氏から安威庄惣領職を安堵された安威右近太夫という人物の名がみえ、管領細川高国と阿波細川晴元が争うと、高国方に属した安威城は周辺諸城と共に陥落した。
その後は晴元方に属したが、晴元の家臣三好長慶の台頭に伴い、次第にその傘下へ入り、1548年(天文17)長慶と三好宗三父子との合戦では長慶方武将として安威弥四郎の名がみえる。
その後安威弥四郎の子五左衛門尉了佐は豊臣秀吉に仕え、1586年(天正14)茨木城に移ったという。
現在城址は住宅街に埋もれているが、一部土塁も残されているようである。また北の花園山頂に築かれている安威砦とは一対のものと考えられ、居館と詰城の関係にあったと思われる。

参考文献 「現地案内板」
                     「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2011年7月