栃木県足利市家富町 --鑁阿寺-- |
別名 | 鑁阿寺館 |
交通 | JR両毛線「足利駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | 平安時代 |
築城者 | 源義国または足利義康か |
形式 | 館 |
主な城主 | 源姓足利氏 |
1142年(康治1)足利荘は源義家の子である源義国が私領を寄進したものと推定され、長男義重は新田荘を継いで新田氏を称し、正室の子である2男義康は足利に住して源姓足利氏の祖となる。 義康の長男義清は水島合戦で討死、2男義房は1180年(治承4)宇治川合戦で敗死した為、3男義兼が源姓足利氏の家督を継いだ。義兼は源頼朝の挙兵に応じ、平家討伐や奥州征伐に従い戦功を立てた。そして1195年(建久6)出家して法名を鑁阿とし、邸宅を撤去して持仏堂を建てた。これが後の鑁阿寺であり、義兼の子義氏の代には七堂伽藍が完成、次第に館から寺へと変貌していったものと考えられる。 その後義氏5代の孫、足利尊氏により幕府が開かれると、鑁阿寺は一族発祥の地として、また足利氏の氏寺として手厚い崇敬と保護が加えられた。 鑁阿寺には現在も周囲を廻る水堀や土塁が良く残されている。 ●足利学校 館の南方には足利学校跡がある。足利学校の創建については諸説あるが、室町時代に最盛期を迎える。一時衰退するも足利学校はその後も繁栄し、「坂東の大学」と称された。 |
南水堀・土塁 | 本堂 | 多宝塔 |
中御堂 | 大銀杏 | 一切経堂 |
境内 | 西門 1432年(永享4)の再修とされる |
西水堀・土塁 |
足利学校跡 入徳門 |
法玄寺 2代足利義兼の正室北条時子五輪塔 |
法楽寺 3代足利義氏墓所 |