宇治川古戦場

宇治川古戦場
京都府宇治市宇治

1180年(治承4)5月26日
以仁王・源頼政×平知盛
Mapion

--宇治橋--
交通 JR奈良線「宇治駅」から徒歩15分。
古代より水陸交通の要衝であった宇治は、幾多の合戦の舞台となる。

●以仁王・源頼政×平重衡・平維盛
1180年(治承4)4月、平清盛の横暴を憤る源頼政は、以仁王に働きかけ平氏追討の令旨を得ると、源行家に与え、諸国の源氏に伝えた。
5月、平氏方に蜂起が露見すると、頼政は以仁王を園城寺(三井寺)に逃がす。その後自らも自邸に火を放つと、園城寺に入り、六波羅と対峙する方針を固めた。しかし園城寺では意見が分かれ、清盛に内応する動きまで出始めていた。そこで頼政は以仁王を連れ、奈良興福寺に向けて脱出を図り、平等院まで辿り着く。ここで逃れられないと判断した頼政は、宇治橋の橋板を外し、平重衡・平維盛率いる大軍を宇治川に迎え撃つ事となった。
やがて平氏方の馬筏による渡河が始まると、頼政は平等院まで退く事となる。その後流れ矢に当たった頼政は軍扇を開き、辞世の一首を残して自刃した。一方平等院から脱出した以仁王も藤原景高勢に追いつかれ、討死した。

●源範頼・源義経×源義仲
1184年(寿永3)源義仲と朝廷から義仲追討の任を受けた源範頼・源義経が争った。
合戦は名馬麿墨(するすみ)に乗った梶原景季と名馬生喰(いけづき)に乗った佐々木高綱の「先陣争い」に始まり、義経方は一斉に渡河して義仲勢を破った。合戦に敗れた義仲は北陸へ向け、敗走するが、粟津原合戦で討死した。
橘島に宇治川先陣の碑が建てられている。
平等院 扇之芝 Mapion
源頼政墓所・最勝院境内

参考文献  「現地案内板」
               「歴史群像シリーズ 学研」
2010年7月