大阪府南河内郡河南町大字大ヶ塚 --顕証寺-- |
別名 | 大ヶ塚御坊 |
交通 | 近鉄長野線「喜志駅」からバス「阪南一須賀」下車。 バス停から顕証寺まで徒歩15分。 |
築城年代 | 1558〜70年(永禄年間) |
築城者 | 根来寺衆 |
形式 | 寺内町 |
主な城主 |
石川の東岸にある河岸段丘一帯は、平安時代中期以後、河内源氏の本拠地となった石川荘であり、1331〜34年(元弘年間)の頃には石川源氏が拠り、城砦を構えていた。 やがて紀州根来寺の勢力が及び、永禄の始めに根来寺の大河宗盤の命により、大ヶ塚に城が築かれた。 1568年(永禄11)河内に織田信長が侵入すると、城将以下、根来衆徒は根来寺へ敗退した。その後1573年(元亀3)久宝寺の顕証寺の別院としてこの地に近松山顕証寺が開基され、寺内町が形成されていく。 1589年(天正17)豊臣秀吉は大ヶ塚御坊を取り壊し、築城を計画したが、その後理由は不明だが中止したという。 1689年(元禄2)大ヶ塚を訪れた儒学者貝原益軒が、「南遊紀行」で「民屋五百廿軒あり」と記しているように、石川・大和川の水運を利用して大坂と結ぶ商業都市として、富田林の寺内町と共に栄えた。 現在も町場の区画が当時の名残として見られる。 |