1333年(元弘3)常陸国宍戸に居た宍戸朝家は、足利尊氏に従い六波羅を攻略すると、翌年安芸守に任ぜられ、甲立荘を領し、移って来た。当初朝家は柳ヶ城に入るが、城として不適当とし、この元木山に移った。しかし元木山には水が無かった為、五龍王を勧請して祈願したところ、水が湧き出したので、名を五龍山と改めたという。以後五龍城は毛利氏の防長移封まで約250年間、宍戸氏本拠となった。 宍戸氏6代元家の頃、甲立盆地北方の中村氏や辺見氏らと争い、次第に勢力を拡大すると、1507年(永正4)7代元源の頃から西方の吉田郡山城主毛利氏と争うようになる。しかし1533年(天文2)8代隆家と毛利元就の娘との婚姻により和睦すると、毛利氏の勢力下に組み込まれていき、宍戸氏の所領は15万石にも及んだという。 1600年(慶長5)毛利氏の防長二州に移封の際、9代元続もこれに従い、五龍城は廃城となる。 城址は大きく宍戸司箭神社が建つ尾崎丸〜櫓の段までの「東郭群」・矢倉の段〜本丸までの「中央郭群」・御笠丸を中心とする「西郭群」の3つに分ける事が出来、それぞれ堀切で区切られており、同時期に築かれたのはなく、徐々に増築されていったものと考えられている。城域は広大で、崩れ落ちている箇所も多いが、石垣も確認出来、特に本丸土塁の石垣は綺麗に残されている。 |