広島県安芸高田市吉田町吉田 --二の丸・本丸跡-- |
別名 | |
交通 | JR芸備線「甲立駅」からバス「安芸高田市役所」下車。 |
築城年代 | 1336年(建武3) |
築城者 | 毛利時親 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 毛利元就 |
1336年(建武3)越後国佐橋荘から吉田荘に下った毛利時親が古くから旧本城と呼ばれる郡山南東の支尾根に築いた事に始まる。 1523年(大永3)毛利家を継いだ12代元就の代、毛利氏は勢力を伸ばし、この頃郡山城は山頂を中心に全山を城郭として拡張された。 1540年(天文9)月山富田城の尼子晴久率いる3万の大軍に攻められたが、大内氏の援軍もあり、撃退している。 1571年(元亀2)元就が亡くなると、孫の輝元が跡を継ぎ、郡山城は大改修が行われたが、山間に位置する郡山城は不便であった為、1589年(天正17)広島城の築城を開始し、1591年(天正19)完成した広島城へ移った。 その後も郡山城は存続していたようだが、1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、輝元が周防・長門2国に減封され移ると、1615年((元和1)一国一城令により郡山城は破却され、更に1637年(寛永14)島原の乱の影響により、切支丹宗徒による利用を恐れ、再び取り壊しが行われた。 城域は広大で、270以上もの曲輪が築かれているという。その為南西麓に建つ歴史資料館に設置されているパンフレットは非常に便利で、効率良く見学出来る。 |
南西麓、酉谷地区石垣 | 毛利隆元墓 | 百万一心摸刻碑 郡山城拡張の際、元就は人柱に 代え、姫の丸に百万一心と彫った 石を埋めたという |
御蔵屋敷跡 | 釣井の壇・井戸跡 | 姫の丸 幕末、長州藩士武田泰信はここで 百万一心の碑を発見し、拓本を 取ったといわれるが、現物は行方 不明となっている |
釜屋の壇 | 羽子の丸堀切 | 厩の壇 |
三の丸石塁 | 三の丸下、崩れた石垣跡 | 櫓台跡から見る本丸・二の丸 |
勢溜の壇 | 尾崎丸堀切 | 清神社 |
本城下、二重堀切の一つ | 本城 | 本城下曲輪跡 |