1572年(元亀3) 武田信玄×徳川家康 --一言坂古戦場碑-- |
交通 | JR東海道本線「磐田駅」から徒歩30分。 |
1572年(元亀3)10月12日、武田信玄は兵を二分し、馬場信春(信房)以下5千に二俣城を攻めさせ、自身は2万を率い袋井方面に南下し、天方城・飯田城・各輪城を攻め落とした。更に久野城を攻めたがここは落とせず、兵を引きその日は木原、西島、袋井に分宿した。 翌13日太田川対岸に大久保忠世・内藤信成・本多忠勝らの徳川軍偵察隊を発見した武田軍は川を渡り、徳川軍を包囲しようとする。それに気付いた徳川軍は小競り合いの後、浜松城に向かって退却するが、一言坂で追いつかれ再び合戦となった。 この時殿軍の本多忠勝は「蜻蛉切」といわれる大槍を振り回し奮戦し、武田軍の追撃を食い止めたとされる。 武田軍もこの時の忠勝の武勇を称え、信玄の近習小杉左近が歌ったとされる「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と書いた札を磐田市国府台に立てたという。 挑燈野 一言坂で敗れた徳川軍は西に約1キロの地点、当時は湿地帯で石動といわれる沼地であった場所で武田軍を迎え討とうとした。 徳川軍は田に布橋をかけ、付近の松林に提灯をかけ敵を待った。そこへ押し寄せた武田軍が沼地に落ちると、徳川軍は反撃し浜松城に引き上げたという。 |
挑燈野碑 |