石垣原古戦場

石垣原古戦場
大分県別府市南立石本町

1600年(慶長5)9月13日
黒田孝高×大友義統
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--大友義統本陣跡--
交通 JR日豊本線「別府駅」から徒歩50分。
1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、大友宗麟の子義統(吉統)は所領を安堵された。しかし1593年(文禄2)朝鮮の役において、明軍の来襲の際、戦わずして退却し、成果を挙げる事が無かった為、秀吉は大友氏の領国37万石を没収し、義統を毛利氏に預け幽閉した。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、九州における東西両軍主力は大坂または関ヶ原へ向かい、手薄の状況であった。この時義統は旧領回復の為、西軍に従い、3千の兵を率いて安芸を出陣して浜脇に上陸すると、南立石本村古屋園に本陣を置き、豊後一円の旧臣達に参加を伝令する。そして9月10日、丹後田辺城主細川忠興の飛び地であった杵築城を攻め始めた。
一方中津城に在った黒田孝高(如水)も、関ヶ原の動乱に乗じ、九州を平定し、毛利氏領である中国地方への進出を目論んでいた。更に東西両軍の内、勝ち残った勢力と戦い、天下の実権を握ろうとする野望も持っていたともされる。黒田軍の主力は子長政に従って出陣していた為、少勢であったが、浪人や地侍等広く公募し、3千6百の兵を集めた。
孝高は杵築城を救援すべく南下し、はじめ義統に降伏して東軍に従う事を勧めるが、義統が断った為、関ヶ原合戦が起こる2日前の13日、石垣原において両軍は激突した。
両軍は七ツ石付近で7度に亘り争い、大友方は吉弘統幸・宗像鎮続らが討死し、義統は降伏した。
孝高はこの勢いで九州を平定しようとするが、関ヶ原合戦は僅か1日で決する事となり、孝高の野望は潰える事となった。また義統は再び幽閉されるが、子義乗が徳川家康に従っていた為、家名存続を許された。
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大友方右翼・吉弘嘉兵衛統幸陣跡
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大友方左翼・宗像掃部助鎮続陣跡
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激戦地「七ツ石」
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黒田如水本陣跡
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黒田方・時枝陣跡
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吉弘神社境内・吉弘統幸墓所

参考文献 「現地案内板」
              「歴史群像シリーズ 学研」
2010年10月