関ヶ原古戦場

関ヶ原古戦場
岐阜県不破郡関ヶ原町関ケ原

1600年(慶長5)9月15日
徳川家康×石田三成
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--決戦地碑--
交通 JR東海道本線「関ヶ原駅」。
1598年(慶長3)8月18日、豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権存続を願う五奉行(石田三成・浅野長政・前田玄以・長束正家・増田長盛)の一人石田三成と、五大老(徳川家康・前田利家(利家没後、前田利長)・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景(1597年(慶長2)病没)の一人徳川家康との溝が次第に深まる。
1599年(慶長4)五大老の一人前田利家が死去すると、朝鮮の役以降三成に不満を持っていた加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明の武断派七将が三成を襲撃する事件が起きた。この時三成は家康の仲介により事無きを得るが、五奉行職を解かれ、近江国佐和山城に蟄居させられる。
1600年(慶長5)6月、家康は上洛命令を拒否する上杉景勝討伐の為、会津へ向かう。その隙に三成は挙兵し、7月に西軍は山城国伏見城を攻略し、美濃国大垣城に入城した。家康は下野国小山で軍議を開き西進、尾張国清洲城に集結した東軍先鋒は美濃国岐阜城を攻略した。
9月14日、大垣城に籠もる西軍主力は美濃国赤坂に布陣する東軍が佐和山・大坂方面に向かう事を知ると、大垣城を出陣し、関ヶ原に向かった。これは家康が野戦に持ち込む為、情報を流したといわれる。
15日、東西両軍は関ヶ原に集結し、午前8時、井伊直政・松平忠吉軍が宇喜多勢に発砲した事で開戦した。両軍激しく争う中、午後1時頃、松尾山に陣していた小早川秀秋が寝返ると西軍は崩れ、東軍が勝利した。
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松平忠吉・井伊直政陣跡
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東首塚
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田中吉政陣跡
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徳川家康最後陣跡(床几場)
決戦地から見る笹尾山 Mapion
島左近陣跡(笹尾山)
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石田三成陣跡(笹尾山)
笹尾山から見る古戦場一帯 Mapion
島津義弘陣跡
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開戦地碑
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小西行長陣跡
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宇喜多秀家陣跡(南天満山)
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福島正則陣跡
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藤堂高虎・京極高知陣跡
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西首塚

参考文献 「現地案内板」
       「パンフレット」
               「歴史群像シリーズ 学研」
2006年11月
2017年4月