一宇治城

一宇治城いちうじじょう
鹿児島県日置市伊集院町大田
Mapion

--東から城址遠望--
別名 伊集院城・鉄山城
交通 JR鹿児島本線「伊集院駅」から徒歩20分。
築城年代 1190〜99年(建久年間)頃
築城者 紀四郎時清
形式 平山城
主な城主 島津忠良・貴久
1190〜99年(建久年間)頃、郡司として着任した紀四郎時清(紀姓古伊集院氏)が館を構えた事に始まると伝えられる。4代時忠で系統は絶えるが、1280年(弘安3)代、島津氏一族である伊集院久兼(久親)がこれを継いだ。
1337年(建武4)征西大将軍懐良親王の九州入りに先駆け、三条泰季が薩摩に入ると伊集院忠国は島津一族でただ一人それに応じ、一宇治城に挙兵して各地を転戦した。1340年(暦応3)一宇治城は島津氏5代貞久率いる大軍に攻められ、忠国は南方にある内城に退くが、間も無く懐良親王が薩摩入りすると勢力を盛り返し、一宇治城を奪還したものとみられる。
その後伊集院氏は島津氏に従い栄えるが、島津氏9代忠国の時、伊集院氏は再び対立するようになり、1450年(宝徳2)一宇治城は忠国に攻められ落城し、伊集院氏は没落した。
島津氏14代勝久の頃、領国は混乱していた。1526年(大永6)勝久は伊作島津家忠良を頼り、その子貴久に家督を譲ると、忠良・貴久父子は家督継承に反対する薩州島津家実久と対立するようになる。1536年(天文5)忠良・貴久父子は実久の家臣町田久用が守る一宇治城を攻略すると、鹿児島進出の拠点とし、1545年(天文14)薩摩守護の地位を確立した貴久は一宇治城を新たな島津宗家居城とした。1549年(天文18)来日したフランシスコ・ザビエルは布教の許可を得る為、この城で貴久と会見している。
1550年(天文19)貴久は内城を築いて移るが、一宇治城には貴久の母である寛庭芳宥大姉がしばらく住んでいたとみられ、また貴久の子である義久・義弘・歳久兄弟は川向こうに建つ妙円寺で教育を受けたといわれる。
城址は城山公園として整備されている。北端最頂部に位置する神明城(本丸)を始め、伊作城・上平城・釣瓶城・弓場城・阿多城等と呼ばれる独立した曲輪が配置され、土塁や空堀が良く残されている。
神明城(本丸)東堀切 神明城(本丸) 神明城(本丸)に立つザビエル記念碑
神明城(本丸)・伊作城間横堀 伊作城 井戸跡
釣瓶城虎口 釣瓶城井戸跡 伊集院駅前に立つ島津義弘像

参考文献 「現地案内板」
                           「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2016年12月