高水寺城

高水寺城こうすいじじょう
岩手県紫波郡紫波町二日町古舘
Mapion

--南西から城址遠望--
別名 斯波館・郡山城
交通 JR東北本線「紫波中央駅」から徒歩30分。
築城年代 1335年(建武2)
築城者 斯波家長
形式 平山城
主な城主 高水寺斯波氏
奥州斯波氏は足利泰氏の長男尾張守家氏が下向し、高水寺城に在城して斯波氏を称した事に始まる。しかし4代高経の代までは高水寺の一郭を居館としていたものとみられる。
1335年(建武2)足利尊氏は北朝方の勢力拡大を図り、高経の長男家長を奥州管領として下向させ、この時高水寺城が築かれたと推定される。
家長以後、斯波氏は足利氏支流として紫波66郷を支配し、更に1521年(大永1)及び1537年(天文6)に南部氏と戦い岩手郡を攻略する。斯波氏は隆盛を極め、「斯波御所」と称され、詮高の代には2男詮貞を雫石、3男詮義を猪去にそれぞれ配して「三御所」と称される。
その後三戸南部氏の南進政策に伴い、抗争は激化するようになる。斯波氏は家臣の離反もあって次第に衰えるようになり、1588年(天正16)岩清水右京の謀叛を契機に南部信直の侵攻を受け没落した。
南部信直は高水寺城を郡山城と改め、中野康実を城代に任じると、郡山は郡治の中心となり、盛岡城築城に際しては南部利直の10数年間の居城ともなったが、1667年(寛文7)城代制の廃止に伴い、廃城となった。この時古材は盛岡城本丸に用いられたといわれる。
現在城址は城山公園となり、曲輪跡や堀切が残されている。御殿跡や観音平付近には一部石垣が見られるが、これは公園整備による後年のものと思われる。
南西麓堀跡 本丸下腰曲輪 若殿屋敷跡(二の丸)
若殿屋敷・御殿間堀切 御殿跡(本丸) 御殿跡城塁
本丸付近に見られる石垣
後年のものと思われる
東段曲輪群にも石垣があるが、
遺構かは不明
諏訪平・諏訪神社跡

参考文献 「戦国の城 学研」
                     「青森・岩手・秋田の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2012年8月