倉賀野城

倉賀野城くらがのじょう
群馬県高崎市倉賀野町
Mapion

--城址碑--
別名 雁城
交通 関越自動車道「高崎IC」から車で15分。
築城年代 鎌倉時代
築城者 倉賀野高俊
形式 平城
主な城主 倉賀野尚行・金井秀景
鎌倉時代初期、武蔵児玉党一派である秩父平四郎行高の後裔という三郎高俊が倉賀野氏を称し、この地に館を構えた事に始まるとされる。
上杉憲政幕下の重鎮であった倉賀野氏居城。
戦国時代に入り、倉賀野行政は関東管領山内上杉憲政に従うが、1546年(天文15)川越夜戦で討死した。その後倉賀野尚行が倉賀野十六騎と共に城を守り、1560年(永禄3)上杉政虎(謙信)の関東出兵の際にはこれに従って、翌年小田原攻めに参加するが、同年12月、後北条・武田両氏に倉賀野城は攻撃された。尚行はこれを撃退し、更に1563年(永禄6)武田氏に攻められた際にも良く守ったが、1565年(永禄8)再び武田氏に攻められ落城、尚行は越後国に逃れた。
1570年(元亀1)武田氏に従った金井淡路守秀景が倉賀野城主となり、倉賀野氏を称した。1582年(天正10)武田氏滅亡後、厩橋城に入城した織田方滝川一益に従い、次いで神流川合戦後、後北条氏に従った。そして1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際は小田原に籠城し、落城直後の7月27日死去した。また少数の兵が守る倉賀野城も開城し、間も無く廃城となった。
総曲輪跡に建つ倉賀野神社 外堀跡である倉賀野神社西側 本丸跡である雁児童公園
南側を流れる烏川 井戸八幡宮縁の井戸 Mapion
永泉寺・金井秀景墓所

参考文献 「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 2
2006年9月
2019年3月