三重県伊賀市下神戸 登山口地図 --本丸に立つ城址碑-- |
別名 | |
交通 | 伊賀鉄道「丸山駅」から登山口まで徒歩10分。 地図の地点、城址西麓に西の丸経由の登山道(石橋が目印)が あります。 |
築城年代 | 1578年(天正6) |
築城者 | 北畠(織田)信雄 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 滝川三郎兵衛雄利 |
1569年(永禄12)8月、織田信長は南伊勢に侵攻、北畠具教の大河内城を攻め、次男信雄を具房の養子として和睦した。 1576年(天正4)伊勢の実権を握った信雄は伊賀の領国化を狙っていた所、1578年(天正6)北畠氏の被官で伊勢旗頭を努める下山甲斐が伊賀への手引きを申し入れたので、重臣滝川三郎兵衛勝雅(のち雄利)に命じ伊賀支配の拠点としてこの丸山に築城を開始した。(元々丸山には天正3年に北畠具教が伊賀平定の為に築いた城郭があったが、信雄によって殺害された後は荒廃していたという)。 これに伊賀国土豪は蜂起し、木津川を挟んだ天童山に立て籠もり、7月25日早朝丸山城に攻め寄せた。不意を衝かれた城兵や多くの人夫は大混乱となり、昼頃三郎兵衛は築城半ばにして僅かな手勢を連れ伊勢へ敗走した。 1579年(天正7)9月17日、信雄は信長に相談せず独断で伊賀に1万の兵を率い出陣したが、重臣柘植三郎左衛門が討死する等大敗し伊勢に敗走した。これを知った信長は信雄を激しく叱責し、一説に勘当も考えたという。「第一次天正伊賀の乱」 1581年(天正9年)9月、信長は伊賀攻めを各部将に命じ、信雄を総大将とする4万2千の大軍で侵攻した。「第ニ次天正伊賀の乱」 伊賀勢は激しく抵抗したが各地で敗れ、10月10日、信長は伊賀に着陣、検分し、ここに伊賀は信長によって平定された。 伊賀平定後、丸山城は再び滝川三郎兵衛によって本格的に築城されたという。 |
西の丸 貯水施設敷地となる |
堀切・土橋 | 竪堀 |
本丸南虎口 | 本丸 | 本丸・天守台跡 |
本丸北東坂虎口 | 本丸北東虎口脇、連続空堀の一つ | 南から城址遠望 |