苅田松山城

苅田松山城かんだまつやまじょう
福岡県京都郡苅田町大字松山
Mapion
登山口地図

--二郭--
別名       
交通 JR日豊本線「苅田駅」から登山口まで徒歩25分。
地図の地点、南麓に案内・登山口があります。
築城年代 740年(天平12)
築城者 藤原広嗣
形式 山城
主な城主 神田氏・杉氏
740年(天平12)大宰少弐藤原広嗣により築かれたと伝わり、940年(天慶3)藤原純友の乱の際には神田光貞が立て籠もり、以後18代神田氏が居城したとされる。
1157年(保元2)平康盛が神田一族を滅ぼすと3男信盛を置いたが、1185年(寿永4)信盛の子である吉盛は壇ノ浦合戦に敗れ、入水して滅亡した。
1196年(建久7)宇都宮信房の持城となるが、長野直盛との争いに敗れ、1334〜36年(建武年間)頃まで長野氏の城代が守った。
1336年(建武3)少弐頼尚が松山城を攻略し、子頼房を置くと、菊池武重・武光が度々押し寄せ、合戦に及んでいる。
1368年(応安1)から周防国大内弘世が猶子顕光を置き、その後守護代杉興信が居城した。1398年(応永5)9月、大友氏鑑が叛乱を起こし、豊前国に侵攻すると、杉弘信が不在であった松山城を攻め落とし、城を守っていた弘信の弟光治は自害した。
その後毛利・大友両氏の間で争奪が繰り返され、1587年(天正15)7月、豊臣秀吉による九州征伐後、秀吉から豊前国6郷を与えられた黒田孝高(如水)の城番が置かれた。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後丹後国田辺城から入部した細川忠興の支配下に入り、城番が置かれたが、1606年(慶長11)廃城となった。
標高128メートルの小山に築かれており、東西に郭が並ぶ。かつては周防灘に突き出た要害であったとされるが、現在は埋め立てにより周囲の状況は一変しており、また北側も採石により破壊されているが、遺構は比較的良く残されている。郭間は4つの石段が設けられ、主郭周囲には石垣も見られる。南下には横堀が綺麗に残されており、畝状竪堀群も確認出来、現在見られる遺構は黒田氏によるものと考えられている。
南麓から城址遠望 南中腹竪堀 南下横堀・土塁
五郭石段 五郭 五郭北下畝状竪堀群
二郭石段 主郭南帯曲輪 主郭南帯曲輪に残る石垣
主郭虎口石垣 主郭 主郭から北側の眺め

参考文献  「福岡県の城郭 銀山書房」
                   「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」 
訪城回数 1
2019年12月