織田秀信屋敷

織田秀信屋敷おだひでのぶやしき
和歌山県橋本市向副
Mapion

--織田秀信顕彰碑--
別名
交通 南海高野線「紀伊清水駅」から徒歩20分。
築城年代 1605年(慶長10)
築城者 織田秀信
形式 屋敷
主な城主 織田秀信
織田信忠の長男秀信屋敷跡。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、西軍に通じた秀信は美濃国岐阜城に籠るが、池田輝政・福島正則・浅野幸長ら東軍先鋒に攻められ開城降伏した。戦後改易となった秀信は加納円徳寺に移って剃髪した後、高野山に向かうが、その後ここ麓の向副村に蟄居した。
秀信は生地新左衛の娘「町野」を妻とし、一子を儲けるが、1605年(慶長10)5月8日、この地で26歳で没した。
善福寺跡に終焉の地として秀信顕彰碑が立ち、秀信墓と伝わる自然石が残されている。
案内板 善福寺跡碑 伝織田秀信墓

参考文献 「現地案内板」
                          「三重・奈良・和歌山の城郭 新人物往来社」   
訪城回数 1
2018年7月