応其屋敷

応其屋敷おうごやしき
和歌山県橋本市橋本2丁目
Mapion

--応其寺--
別名
交通 各線「橋本駅」から徒歩5分。
築城年代 1587年(天正15)
築城者 木食応其
形式 屋敷
主な城主 木食応其
1537年(天文6)近江国蒲生郡で生まれた応其上人は元々武士で、姉川合戦にも参加したというが、主家佐々木氏没落後に仕えた大和国高取城主越智氏も没落した為、この地に移ったとされる。
1573年(天正1)高野山において出家し、日斎房良順、後に応其と改め、草衣を纏い、木食修行を重ねた。
1585年(天正13)豊臣秀吉による紀州征伐の際、根来寺を攻略し、高野山に迫る秀吉の下へ赴き、和睦を申し入れ、高野山は戦火から免れる事が出来た。以後応其上人は秀吉の信望を集め、その支援を得て大塔金堂等の造営修復を行い、高野山中興の祖として崇拝された。また1587年(天正15)惣福寺という村堂を再興して応其寺とし、ここを拠点として活動した。
秀吉没後、応其上人は高野山を去り、近江国甲賀郡に隠退し、1608年(慶長13)飯道寺で73歳の生涯を閉じた。

参考文献 「現地案内板」
                「歴史群像シリーズ 学研」   
訪城回数 1
2018年7月