福井県越前市本町9 --龍門寺門前に立つ城址碑-- |
別名 | |
交通 | JR北陸本線「武生駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 1573年(天正1) |
築城者 | 富田長繁 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 不破光治 |
龍門寺は1299年(正安1)、悦巌崇善によって創建されたと伝えられる。 1573年(天正1)織田信長の朝倉攻めの際、この地に本陣が置かれ、朝倉氏滅亡後、信長に内通した朝倉氏旧臣富田長繁が拠った。長繁は信長の伊勢長島の一向一揆討伐に従い活躍するが、越前守護代に同じ朝倉氏旧臣である桂田長俊(前波吉継)が命じられる等、冷遇された為、翌年一向一揆と結び、一乗谷に桂田長俊を攻め滅ぼすと、丹生郡領主魚住景固も謀殺した。しかし信長に内通しているとの風評から逆に七里頼周率いる一向一揆に討たれた。 長繁没後、龍門寺城には一揆の将三宅権之丞が拠るが、1575年(天正3)信長に攻め落とされる。そして越前一向一揆平定後、府中及びその近辺10万石を府中三人衆(不破光治・前田利家・佐々成政)に支配させ、龍門寺城には不破光治が入城するが、やがて廃城となった。 龍門寺が城址とされるが、この地は旧城の東南隅にあたる様で、実際の城域は更に広かったものと思われる。龍門寺裏手にある墓地は堀跡とされ、周囲より一段低くなっている。また龍門寺のすぐ北側に「卍が辻」がある。方形状になっており、雇った兵士を数える「人枡」や堀跡等、諸説あるが、龍門寺城に関連する施設であったと考えられている。 |
龍門寺 | 堀跡である墓地 | 龍門寺北側にある卍が辻 |