一乗谷朝倉氏館

一乗谷朝倉氏館いちじょうだにあさくらしやかた
福井県福井市城戸ノ内町
Mapion

--松雲院唐門・水堀--
別名  
交通 JR九頭竜線「一乗谷駅」から下城戸まで徒歩15分。
築城年代 1471年(文明3)
築城者 朝倉孝景(敏景・教景)
形式 館・城下町
主な城主 朝倉義景
但馬国養父郡朝倉を本貫地としていた朝倉氏は、1336年(延元1)広景・正景の時、越前国守護斯波高経に 従い越前国に入ると、黒丸館を構え、勢力を伸ばした。やがて朝倉氏は主家斯波氏を追うと、1471年(文明3)朝倉氏7代孝景(敏景・教景)の時、この一乗谷に本拠を移したとされる(諸説有り)。以後一乗谷は氏景・貞景・孝景・義景5代約100年にわたり、戦国大名朝倉氏本拠として繁栄した。
1566年(永禄9)京を追われた足利義昭は、織田信長に迎えられるまで、この地に一時滞在し、義景の庇護を受けている。
1573年(天正1)7月、義景は近江国小谷城主浅井氏援軍として自ら出陣するが、戦意は揚がらず、8月退陣を開始、その途中刀根坂で信長に追撃され、敗北を喫した。離反者が続出する中、義景は一乗谷を放棄し、六坊賢松寺に退くが、一族であった朝倉景鏡に背かれ、自刃した。一乗谷は平泉寺衆徒によって谷中が焼き尽くされ、3日3晩燃え続けたといい、朝倉氏滅亡と共に灰燼と化した。
朝倉氏滅亡後、一乗谷には越前守護代に任ぜられた朝倉氏旧臣である桂田長俊(前波吉継)が入るが、同じく朝倉氏旧臣で龍門寺城に拠る富田長繁が一向一揆と結び、一乗谷に攻め寄せ、長俊は討死した。
1575年(天正3)一向一揆を平定した後、織田信長は柴田勝家に越前49万石を与えた。勝家は北陸支配の拠点として北ノ庄城を築いた為、一乗谷は荒廃した。
下城戸に立つ碑・案内 下城戸水堀・土塁 下城戸虎口
権殿跡
朝倉権ノ頭屋敷跡
屋敷群跡 屋敷群跡
朝倉氏館北水堀・土塁 朝倉氏館・建物跡 朝倉氏館南土塁・櫓跡
朝倉義景墓所 朝倉氏館内全景 朝倉氏館南水堀・土塁
湯殿庭園・中ノ御殿間堀 中ノ御殿跡 中ノ御殿南門跡

参考文献 「現地案内板」
                        「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
訪城回数 2
2006年11月
2014年10月